禅語から学ぶ~高臥聴松濤
高臥聴松濤 (こうがして しょうとうを きく)「高枕でのんびりとしながら、松が波のように揺れる音を聴くこと」最初、こんな風に解釈した私です。いえいえ、とんでもありません。全く別、いえ、逆の意味です。「高臥」とは志を高く持ってひっそりと暮らすこと。高枕でのんびりで
高臥聴松濤 (こうがして しょうとうを きく)「高枕でのんびりとしながら、松が波のように揺れる音を聴くこと」最初、こんな風に解釈した私です。いえいえ、とんでもありません。全く別、いえ、逆の意味です。「高臥」とは志を高く持ってひっそりと暮らすこと。高枕でのんびりで
看脚下(かんきゃっか)読んで字のごとく、「足元を見なさい」という意味です。もっと深く言うと、「自分を知りなさい」「自分自身を見つめ直しなさい」という意味にも取れます。玄関で靴を脱いで家に上がった時、振り返って自分の履物がきちんと揃えているかをしっかりと確認する。乱れて
直心是道場(じきしん これ どうじょう)意味:自分の素直な心の中が、自分を磨く道場である。つまり、何事にも素直な心で向き合い、受け止め、糧とすることができる人こそが、どんどんと成長を遂げることができる人だということです。どんなにすばらしい道場に出向こうとも、斜に構えてい
身心一如(しんしんいちにょ)「心身一如」と書くことも多いようですが、曹洞宗の開祖 道元禅師の書には「身心一如」と書かれているようです。「身体と心は一つであり分けることはできない」という意味です。でも、でも、でも~~~言っていることとやっていることが違う人って、いま
善巧方便(ぜんぎょう ほうべん)善巧とは巧みに善い⇒上手いこと方便とはやり方(「嘘も方便」などと言いますね)つまり「善巧方便」とは巧みに上手いやり方⇒相手や状況に合わせた上手いやり方という意味です。昨日参加した勉強会で、「職場で感じるコミュニケーションの課題にどんな
玄中玄(げんちゅうのげん)昨日の茶道のお稽古にはこのお軸が掛かっていました。「厳しい言葉だから普段はあまり掛けないけど3月だしね。」笑顔でおっしゃる先生のお言葉に身が引き締まります。「玄」の意味を国語辞典で調べてみると、次の通り。① 奥深くて明かりの及ばない所の色。
楽在一碗中(らくは いちわんのうちに あり)楽しみは一碗の中にあるという、そのものズバリの意味です。それは、何も食事に限ったことではないでしょう。一碗=一皿=一杯のお茶に心の安らぎがある。毎日のちょっとした事に幸せを感じる。幸せや楽しみや喜びは、私たちの目の向け方、
明珠在掌 (みょうじゅ たなごころ にあり)明珠とは特別な珠、宝石、貴重なもの掌(たなごころ)はそのまま、掌のことつまり、「宝はあなたの掌の中にあるのですよ」と言う意味です。さて、「宝」とは一体何を指すのでしょう。沢山迷って悩んで、どうして良いかわからない。と
在眼前 がんぜんにある目の前にある。そのものズバリの意味なのですが、一体なにがあるのでしょうか?そもそも私たちは、ちゃんと目の前を見ているでしょうか?見ているようで見ていない。見たいものしか見ていない。遠く未来しか見ていない。過去に囚われ今を見ていない。以外にも
無心普段よく使うこの言葉も実は禅語由来でした。私たちがこの「無心」を使う時には、「無になる=何も考えない、頭も心も空っぽになる、空になる」などの意味で使うと思います。しかし禅語の無心は少し異なります。「ありのままのイキイキとした姿。ありのままに命を輝かせている姿。」